曹洞宗 魚籃山 常現寺 青森県八戸市
 『月刊ふぁみりぃ』 2016年9月
  太古のロマン 穂積重二物語「夢を掘るのもいいじゃないか!!」
  
和尚さんのさわやか説法274
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延
 先月号の「さわやか説法」は、連載以来初めて第一面カラー刷りとなった。
 それは、美しく咲く「大賀ハス」の写真を編集者が皆さんに紹介したかったからであろう。
 今回は、その続きであるが、多分、また第二面の白黒刷りに戻ることでしょう。(涙)
―さて―
「大賀ハス」と呼ばれる蓮は、千葉県は検見川厚生農場の約二千年前の泥炭層から大賀一郎博士(明治16年〜昭和46年)が発掘し、発芽に成功されたことから、その名を取っての太古の花のことだ。
 そして、この発掘に寄与し、原動力となったのが、我が郷土、八戸の「穂積組」(現穂積建設工業(株))の三代目社長「穂積重二」その人なのである。
―この物語を―
 先月号に「さわやか説法」させていただいた。
 いや、どうしても書きたくなったし、書くことによって、現在の八戸市民の皆さんに知ってもらいたくなったのだ。
―それは―
 八戸童話会の「長谷部美智子」さんがこの夏の「森のおとぎ会」で、子ども達に語った「お話し」を聞いた時、身震いするほどに感動したからである。
 長谷部さんは、この発掘エピソードを物語りをし、穂積重二社長の言葉である「このせせこましい世の中に 夢を掘るのもいいじゃないか!!」との意味を強調したのだ。
 古代のハスの一粒の種を、あの広大な泥炭層から探し出すことは困難を極めた。
 でも、あきらめることなく、立ち向かう穂積氏の「志」と、「夢」を追い求める生き方を、子ども達に力強く優しく教え示された。
―きっと―
 八戸の先人の「心」を学んでもらいたかったのであろう。
「決して あきらめるな!!」
「自分の理想の夢を求め続けよ!!」と・・・。

 私も子ども達に混じって感動させられた。
 その物語と共に、八戸にこのような人物がいたことをである。
 最も心を打たれたのが、穂積重二氏の、その言葉であった。
 あの時代、昭和26年のことである。
 戦後まもない日本国が復興に向けて、国全体が、国民全体が立ち向かい、それこそ「新しい国造り」に夢を求めていた時代である。決して「せせこましい世の中」ではなかったはずだ。
 平成の現代なら「せせこましい」とも言えなくもないが、あの時代は「おおらか」ではなかったか?
 そんな思いがよぎった。
 穂積氏は「なぜ、せせこましい世の中」と言ったのであろうか。
 その疑問に対して、私の「推論」「暴論」「愚論」を試みることにしたい。
 まず、「せせこましい」という意味を述べるならば、
 1.ゆとりがなくて窮屈である。せまくるしい
 2.気持ちにゆとりがない。考え方や性質などがこせこせしている
 3.料簡がせまい
 4.器が小さい
 5.度量が小さい等々が上げられる。
 このことから考えると、穂積氏は、大賀博士の古代ハスを探し出そうとする「夢」を叶える為に、国や県にその追加資金提供を求めては、けんもほろろに断られたのかもしれない。
 あるいは、世間の人々に嘲笑され、非難されていたかもしれない。「そんなハスの種なんてあるもんか!!」と・・・。
 また、そんなことから発掘作業の人々も一人去り、二人去りと減っていき、残ったのは自分の配下の従業員と、ボランティアの中学生達だったのかもしれない。
―あるいは―
 穂積氏自身の心が「おおらか」であったればこそ、世間を「せせこましく」感じていたのかもしれない。だから、自らが資金を調達し、続行したのだ。
 または、「せせこましくなってはいけない」という自分の心への「戒め」だったかもしれない。常に「夢を抱き」「夢を掘る」自己開拓の精神だったかもしれないのだ。
 そう思うと、あの言葉は、きっと自分を奮い立たせ、自己を鼓舞、激励させる心ではなかったか?
 そしてまた、大人達ではなく、中学生の子ども達に「夢」を求める大切さを教えたものではなかったのではないか。と・・・・・・。
「決して あきらめない心」を。
―それが―
「夢を掘るのも いいじゃないか」との「大らかさ」の教えだったのだ。
―かくして―
 女子中学生の「西野真理子」さんが、昭和26年3月31日。夕刻5時ごろ。その泥炭層の中から、太古のハスの実、一粒を掘りあてたのであった。
 決してあきらめない「大らかさ」が奇跡を起こした。
 故に、「夢を掘る!!」
 これこそが、自己の心を掘る「穂積重二」の生き様だった。

 穂積氏は、その発掘後三年をして、昭和29年に58才で亡くなられた。
 今から思えば、もしあともう少し健在であったならば、「太古のハス」の分根は時を経ずして、八戸の地に花を開いたのかもしれない。
―しかし―
 八戸の地に分根され、新井田の対泉院。貴福池に花開いたのは、二十年後の昭和46年のことであった。
―そこまでの―
いきさつを、またまた「推論」「私論」「暴論」してみよう。

『古代ハス!!八戸市にも』
 この見出しが、昭和43年10月31日、東奥日報紙に掲載された。
「八戸市出身の故穂積重二氏の隠れた援助で故大賀一郎博士が発見。花開かせた二千年前の”古代ハス”が、来年四月、八戸市に移植されることになった。」と記され、
 その発端について「最近、沖縄から弘前市まで、このハスが移植され、見事に開花しているところから、一番ゆかりのある八戸市にもぜひ―と、このほど加藤市観光商工課長(当時)(※故加藤憲曠氏のこと)が上京。大賀ハス研究会を訪れ八戸市の移植を申し込んだ」と紹介している。
 その時、先方からは「穂積さんへの恩返しに八戸市へは、一番先に移植したかった。いま東大園芸研究所で、保管栽培してもらっているが、幸い万国博にこのハスを展示する為、来年四月に掘る。その時、八戸市へ必ず移植しましょうと、トントン拍子に決まった」と、その経緯が述べられている。
―そして―
 翌年、昭和44年4月22日、八戸市へ手渡され、同月24日、是川は清水(せいすい)寺の「心字の池」に移植されたのであった。
 私は、この陰の立役者は、八戸市の「名助役」と称えられた今は亡き「巻石蔵」氏ではないかと思った。
―実は―
くだんの穂積重二は巻氏の才覚を見い出し、社員として採用後、東大に学ばさせ、世に送り出している。
―それと―
 巻氏は「八中46回生」であり、初代八戸市博物館館長となる「正部家種康」氏は同期。また加藤一夫(憲曠)氏は八中42回生であって、これはまさに「八中がらみ」ではないか。それと、巻氏の恩返しではないかと私は勝手に邪推した。
―さてさて―
 元にもどそう。
 この分根は、水の冷たさからか、寺の名の通り「清水(せいすい)」であったのか、枯死してしまうのである。
 もとより、蓮華は「泥中に咲く花」であるわけだ。
 かくして、またもや「八中がらみ」だ。
 次なる候補池は、後に巻氏が支える「秋山皐二朗」元八戸市長の菩提寺が新井田の対泉院である。
 その昵懇の仲が住職の故上田頼石老師であった。
 秋山元市長は、八中33回生である。
 この貴福池での移植は見事に成功し、大きな美しい花を昭和46年に咲かせる。
―まさに―
 穂積重二氏の「夢を掘ったっていいじゃないか」の言葉そのままに「夢」がふくらみ、故郷八戸において
「夢」が花開いた瞬間だった。
 発掘してから二十年が経過していた。

―今や―
 「大賀ハス」は八戸市の夏の終りを告げる風物詩として親しまれている。
 どうぞ、読者の皆様には、八戸市には隠れた偉大な人物と、その物語があったことを知ってもらいたいものである。
                                                                 合掌
 (注)今回の説法は、かなり私見、暴論、乱論であったことを、ひらにお許し下さい。             再合掌
  参考 故石亀明氏収蔵「大賀ハス」資料(穂積建設工業(株)所蔵)
     東奥日報紙・デーリー東北紙
     きたおうぅ人物伝 近代化への足跡(デーリー東北新聞社発行)
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