曹洞宗 魚籃山 常現寺 青森県八戸市
 『月刊ふぁみりぃ』 2014年6月21日(土)
  八風吹不動(はっぷうふけどもどうぜず)
  
和尚さんのさわやか説法254
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延
 「和尚さん!!読みましたよ。さわやか説法。」
 そんな電話があった。「百尺竿頭、一歩を進むは、私のモットーとする、座右の銘なんですよ」
 「ありがとう。よく書いてくれました」
 電話の声は弾んでいた。
―そう―
 この百尺竿頭進一歩の物語りは、先々月、四月号の内容であった。
 一尺は33センチである。だから百尺ともなると33メートルだ。その高さの竿先から一歩を進むとはどういうことなのか?
「進一歩」の覚悟、決心、自己の気概、そして、その真(まこと)の意味とは?と…。
 それらのことを書き綴ったのが「百尺竿頭進一歩」の説法であった。

 その電話の声は「八戸酒造」の社主、八代目・駒井庄三郎氏であった。
 駒井氏は艱難辛苦の人である。
 しかし、幾多のそれを乗り越えて、今や、「陸奥男山」「陸奥八仙」は、八戸市の銘酒として全国的に広がり、愛酒家の喉を潤し、心を唸らせている。
 この駒井氏の心底にある自己錬磨と開拓精神が「百尺竿頭進一歩」だという。

―てなことで―
 この「さわやか説法」が読者の皆さんの心に、何か感じていただいていることが、私にとっては望外の喜びである。
 そこで、今月号もまた禅語を登場させる。
 「八風吹不動」である。
 これは「八風(はっぷう) 吹けども 動ぜず」と読む。
 私達は、人生や、生きていく上で、いろいろな困難、苦難、厄難が襲いかかってきては、それに立ち向い、時には耐え、時には忍び、そして人生を歩み、克服しようとする。
 それらの困難を、例えとして、風や嵐、雨に、あるいは寒さや雪または壁や障害物等に置き換える。
 その苦難の風に当っても、決して動ずることのない確固たる姿が「吹けども動ぜず」ということである。
―しかし―
 今回、提示した禅語にある八風とは四方八方から吹く苦難の「風」とは違う。
 実は、この八風は、次の八種類の風ということなのだ。
 「利(り)・誉(よ)・称(しょう)・楽(らく)」
 「衰(すい)・毀(き)・譏(き)・苦(く)」

 皆さんは、まさか「風」に種類があるとは思わなかったでしょう。
 私も実はそう思っていたのです。
 この八種類の風の意味は後述するとして、私自身、掲げた「八風吹不動」の禅語に出合ったのは、今から四十年前、岩手県水沢市(現奥州市)にある「奥の正法寺」という修行道場であった。
 正法寺は、「奥の」という冠詞(かんむりことば)が付くが如く、北上山系の山奥に、ひっそりとたたずむ、平成の現代でも茅葺き屋根に覆われた寺であり、開創は貞和四年(1348)という古刹の中の古刹である。
 私は昭和47年12月の真冬、雪降りしきる中、その修行寺の門を叩いた。
 そこには古参の修行僧十数名が在籍し、寒さと叱咤と飢餓と、そして苛酷な修行が待ち受けていた。
 そこは、全てが修行であった。坐禅、作務、読経という僧侶の基本的修行は勿論のことではあるが、水の調達、食べ物の調達、煮炊きのもととなるタキギも山からの調達と、生活そのものが修行だった。
 つまり、自給自足の修行であり、食べ物や材料を買って、まかなうことが無いのである。
 お米も野菜も、みんな托鉢をし、農家の軒先で御経を読み「物乞い」をして調達するのであった。
 水も水道の「水」ではない、川の「水」である。裏山に流れる小川の水を汲み、あるいは、そこにホースを通し台所まで引いて、水を調達する。
―だから―
 水もお米も野菜も、全てを大切に扱い、大事に丁重に、いただくのであった。
 その丁重に扱うことが、これまた修行中の修行ということであるのだ。
 その台所の床の間に掛けてあったのが、「八風吹不動」の軸であった。
 この墨跡を書かれた方は、その当時、禅僧中の禅僧と称せられていた「石橋洞龍(いしばしとうりゅう)」という住職である。
 この石橋洞龍老師のもとで修行したいと願う若き修行僧達が、この厳寒の地で、ひたすら修行に打ち込んでいた。
 この書を初めて、仰ぎ見た時、私は「どんな苦しい修行でも、どんな厳しい風が吹こうとも、決して動ずることなく耐えて精進せよ」という意味にとらえていた。
―ところが―
 この禅句の真の意味は、まるっきり違うのである。
 前述した「利(り)・誉(よ)・称(しょう)・楽(らく)・衰(すい)・毀(き)・譏(き)・苦(く)」の八種の風であって、これは我々人間の煩悩の風なのである。
 人間を、人生を悩まさせ、苦しめるのは、自然界の風ではない、私達の心の中にある煩悩の風なのだ。
―しかし―
 その風に吹かれたとしても「決して動ぜず」というのである。

 では、この八種の風の意味を述べてみることにする。それは…。
 利(りこ)…自己の利欲に執(とら)われ、自分だけはと願う心。
 誉(ほまれ)…名聞名誉に執われ、誉められたいと願う心。
 称(たたえ)…人々から称賛されたいと、願う心。
 楽(たのしみ)…享楽にふけり、楽(らく)したいと願う心。
 これを「四順(しじゅん)」といい、こういう風が吹いてくれればと願う「煩悩心」のことである。
次に、
 衰(おとろえ)…気力、活力の衰え、人生の衰えた姿。
 毀(けなし)…他の人から批判され、けなされる姿。
 譏(そしり)…他の人から、そしられる姿。
 苦(くるしみ)…人生の苦難、苦境にさらされる姿。
 これを「四違(しい)」といい、こういう風が吹かないでくれればと願う、やはり「煩悩心」のことなのだ。
 この八種の煩悩の風に迷うことなく、惑わされなく、毅然とした動じない確固たる心でありなさいとの教えが「八風吹不動」の真底なのだ。
―実は―
 この禅語は、更にこういう禅句から成り立っている。
「八風吹不動 天辺月」読みは「八風吹けども動ぜず 天辺(てんぺん)の月」
 つまり、動じない心は、天に浮び皓々として輝く月の如くであるとのことである。私達の世界が風が吹こうが、嵐が吹こうが、天上の月は揺るぎもせずに輝いている。
 その不動の姿を「月」に例えたのであった。
 この「天辺(てんぺん)の月」は、実は、私達自身が本来具(そな)わっている「真心(まごころ)」であり、「仏心、仏性」というものである。
 煩悩を離れた自己真実の心なのだ。
 つまり、「不動の心」とは、煩悩にも、あらゆる風にも揺るがない「自己本来の真実の心」ということであった。

―ところが―
 この高山和尚なんぞは、動ぜずどころか、吹かれりゃ、そのまま動き、動かされている。
 まるっきし「風見鶏」であり、風に吹かされっぱなしなのだ。
 おまけに、天辺の月どころか「天プラの月」というか、揚げられおだてられて鼻ふくらましの煩悩の心に動かされている。
 つまり「天辺(てんぺん)」ではなくして、「奈辺(なへん)」の「尽き」に落ちるだけなのだ。(T_T)(T_T)(T_T)
  合掌  
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