曹洞宗 魚籃山 常現寺 青森県八戸市
 『月刊ふぁみりぃ』 2013年3月16日(土)
  「いただきます」と「ごちそうさま」の心 パートV =禅宗の食事作法から=
  
和尚さんのさわやか説法243
曹洞宗布教師 常現寺住職 高山元延
 今、私の弟子が大本山で修行に励んでいる。
 その大本山とは、曹洞宗は横浜市の鶴見ヶ丘にある「大本山總持寺」である。
 近年、とみに有名になったのは、往年の青年スター「石原裕次郎」が眠るお寺だからだ。
 その本山に、弟子が入門したのは、先月2月18日であった。
 手甲(てっこう)、脚絆(きゃはん)を身に着け僧侶の旅装姿で、到着したことを告げる木版を叩く。(写真1)
 その時、「新到よろしう〜!!」とあらん限りの声で叫ぶのだ。
 生半可な声だと誰も出てこない。出てくるまで叫ぶ。
 新到とは、新入りの修行僧のことを言う。
 つまり「新到よろしう〜!!」とは「私、新参の和尚が、やってまいりました。よろしくお願いします 」を簡略に表現した、古来からの「入門許可」を求める禅門流の言葉であった。
―ところが―
 この声を、遠くにいて、古参の和尚達は見計らっているのだ。
 それは、真底(しんそこ)、入門を志す決意が声に現われてくるまで、じっと待っているからだ。
 人間、切羽詰まらないと本物が出てこない。もうどうしようもなくなった時、本物の声が響く。
 それを聞き取った時、古参和尚が「どぉ〜れェ!!」と登場してくる。まさに千両役者が舞台にせり上がってくるようなシチュエーションだ。
 そこで、その古参和尚は、新到和尚に「禅問答」を仕掛ける。
 新到和尚にとっては初めての禅問答である。何を言われているか分からないし、どう答えるのかも分からない。
―でも―
 何かを答えなければならない。実は何と答えてもいいのである。
 ただその答えは、自己の奥底からほとばしる心なのだ。なまじっかな迷いがあると、それが出てこない。迷いが吹っ切れるまで古参和尚は問答を畳み込んでくる。
 やはりこれは、切羽詰った状況に追い込む。追い込まれることによってそこに真実(まこと)の修行を志す本物の心と自分自身そのものが出てくるのであった。
 これは最初の関門であり、最初の面接試験のようなものなのだ。
 その難関を通り過ぎると、草鞋(わらじ)を脱ぎ、そして「旦過寮(たんがりょう)」という部屋に通される。
 旦過(たんが)とは道を求めて諸国行脚する修行僧が夕刻に来て宿泊し、旦(朝)には過ぎ去るとの意味だが、今日(こんにち)では暫くとどまり、本人の求道の決心が固いかどうかを試されるのが、この寮であった。
 つまり、正式に本山に入門するまでの「お試し期間」のことで、約一週間前後を過ごすのが、入った日から、一日中、ただ坐禅を黙々とすることだけだ。この黙々と坐禅をしていることが、ものすごくつらいのである。
 もう耐えがたい苦痛が襲いかかってくる。
 この期間は、日中の坐禅と夜の寝ることだけだが、これが、また寝れない。それと、修行僧とて生身の人間だから食事をしなければならない。
―しかし―
 この食事も、ものすごい苦痛なのだ。
 それは、徹底した「食事作法」を叩き込まれるからだ。
 それを指導されながら、怒られ、一つ一つの作法を言われて教えられて食べるものだから、御飯が喉を通らないのである。
 つまり、「いただく」「食べ物の恵み」を、いかにいただくかを徹底的に身につけさせ、自分の「生きている」証(あか)しを、つまり修行する自己の生命観(せいめいかん)を教えるものであった。
 その食事の器は「応量器」(写真2)というコンパクトな食器で修行僧の必需品である。
 これは大小五つの器が重なったもので、これを展(ひろ)げて、御飯(ごはん)や、お粥(かゆ)を盛り、それを食べるのだが、ここには作法と共に、食べる意味が説かれた教え、即ち「お経」を唱え、そして「いただく」のであった。
―てなことで―
 今月号の「さわやか説法」では、私の弟子も今、本山でしごかれながらお粥を食べていることであろうから、そこに思いを馳せながら、この禅宗における「食事作法」の教えを通して「いただきますの心」の本質を述べてみることにしたい。
 ものを食べるには、まず食器が必要である。実は先述した僧侶が食事をする時に用いる「応量器」という食器自体が「いただく」ことの意味がある。単なる食べ物を盛り付けるお椀や、お皿ではないのだ。
 その食器たる「応量器」を展(ひろ)げ並べる時(写真3)、こういう偈文(げもん)を唱える。
 「仏生迦毘羅(ぶっしょうカピラ) 成道摩掲陀(じょうどうマカダ) 説法波羅奈(せっぽうクラナ) 入滅拘絺羅(にゅうめつクチラ) 如来応量器(にょらいおうりょうき) 我今得敷展(がこんとくふてん) 願共一切衆(がんぐいっさいしゅう) 等三輪空寂(とうさんりんくうじゃく)」
―難しいですよねェ―
 これ直訳するとお釈迦様が生まれたのはカピラという国で、悟りを開かれたのはマカダ国。
 初めて説法されたのはハラナ国で、そして亡くなられたのはクチラ国という所であることを説いている。
 即ち、今、自分の目の前にある「応量器」は、そのお釈迦様から伝わって来ている食器である。
 それを私は展げるのであるが、願わくは全ての人々と共に、等しく三輪が空寂ならんことをと、祈るのである。
 この最後の「等三輪空寂」が最も肝要とするところなのである。
 つまり、三輪とは、「食べ物を施す人、施される自分、そして食べ物そのもの」の三つのことをいい、この三者は等しく、三つの輪の如く一体であり、空寂なるものだと、いうことだ。
 この空寂とは、欲望的なものを離れた清浄(しょうじょう)なる、執われのない世界と心のことである。
 いわゆる、ここに「いただく」の意味があるのだ。
 自分が食べ物をいただくのは、全ての人々と共に、自分も他の人も分け隔てなく、等しく欲望を離れて、仏からの「施し」として、天からの恵みとして、清らかな世界であり、その心で頂戴するということなのである。
―故に―
 読者の皆さんには、「いただきます」との挨拶は、単なる食事をする時の掛声や合図的なものではないことがお分かりいただけたものと思う。
 意味あってのことなのだ。
 今月号では、禅宗で食事をする時の「応量器」なるものを写真で紹介してみた。
 来月号では更なる「食事偈文」のお唱えの教えを紐解いて「いただきます」の本質を語ることにしたい。
乞う、ご期待を!!

 きっと今頃は私の弟子は、この「食事作法の偈文」の意味することも知らずに、無心でお粥を、御飯を叱られながら、食べているにちがいない。
 でも今はそれでいいのである。
 「無心」で食べていることに意味がある。
 多分!!「無心の美味しさ」を味わっているはずである。
  合掌  

写真1 入門許可の木版三打

写真2 禅宗の食器「応量器」

写真3 修行中の基本的な食事
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