(とき)は金(かね)なり
されども 金
(かね)は時(とき)と失(な)くなる

和尚さんのさわやか説法191
平成19年7月号 曹洞宗布教師
常現寺住職 高山元延

「されどもシリーズ第五弾!!」
 ただ今、参院選まっ只中!!今回の選挙の争点は色々とあるが、第一番は「年金問題」であるという。
 私自身も、この春、五千万件もの「消えた年金」の報道を知った時は、ビックリするとともに、怒りが込み上げてきた。
 それは、私ばかりではなく国民全員が思うところでもあろう。
 五千万件ということは、生まれたばかりの赤ちゃんから高齢者までの日本全国民総数の約半数とするならば、年金受給者、あるいは現在納付している方々全員であるといっても過言ではない。
 とするならば、私もその五千万件の中に入っていると思ってしまった。(まだ、社会保険事務所に未確認ではあるが?)
―だから―
 今月の「さわやか説法されどもシリーズ」は「時
(とき)は金(かね)なり」の格言を取り上げたのであり、そして「されども、金は時と失くなる」と、怒りを込めて論説したくなったのだ。(注:少し大袈裟かな?)
―と、いうのは―
 この「年金問題」が浮上した時、
私が二十才を迎えた年、亡き父親和尚様からの電話を突如として思い出したからであった。
 それは、こういう電話だった。
「お前も二十才
(はたち)になったのだから、お国の方針で年金とやらを納めなければならないそうだ」
「しかし、お前はまだ学生だし払えないだろうから、私が立替えて払っておいてやる」
「まあ、お前はしっかりと勉学修行に励むがよい」とのことだった。

 その当時の私は、将来のための年金なんぞは、どこ吹く風。からっきしも頭の片隅にもなかったし、毎日が喰うや喰わずの空腹学生の苦学生だった。そして、卒業後は本山修行と、これまた年金とは、かけ離れた世界にいた。
 この間、きっと父親和尚様は、私の為に年金をせっせと納付し続けていたことであろう。
―しかし―
 私自身、年金納付について認識したのは、本山から帰っての翌年、奥様と結婚してからのことであり、その時、「年金」を納付しなければならないとの八戸市からの指導であった。
 それから自動振込みで強制的に納めさせられてはいるが、それ以前のことは、今の今まで気がつかなかったのである。
―つまり―
 父親和尚様が払い続けていたとすれば、その領収書や、証明とするものが私の手元には一切存在しないのであり、社会保険事務所に記録が無い限り、「消えた年金」となるのではないか。
 まさに、このことは「金は時と失くなる」と言えるのであった。
 ということは、政府における「年金問題」は、「時は金なり」という格言を真っ向から否定する事実であるといえまいか。
―だから―
 私は、あえて「時は金なり されども金は時と失くなる」と言いたくなってしまった。<`ヘ´>(怒)
 かなりのこじつけ論理で断じてはいるが、
 そもそも「時は金なり」と言う格言は、私ごときが、年金問題にリンクさせて論ずるべくもない大切な教えであることは確かだ。
―しかし―
『時』に対する考え方が、西洋的というか、アメリカ経済至上的なものと、日本人的というか、仏教的な捉え方と根本的な差異があると思えるのだ。
『時は金なり』の格言は、アメリカの科学者であり、政治家でもあったベンジャミン・フランクリンが言った言葉であるという。
 フランクリン(1706~1790年)は、今から三百年前の人物であり、学校教育をほとんど受けることが出来なかったが、苦労を重ねながら、持ち前の努力と独学で知識を身につけ、10才の頃から働き始め、23才で独立をして印刷所を開き、新聞社を設立したというのだ。
 その時の、自分を奮い立たせる言葉が『時は金なり』という精神だった。
 フランクリンは「時間は、お金と同じように大切なものであるから、決して無駄にはしてはいけない」ということで、毎日ゝ休むことなく働き、努力を重ねたとのことであった。
 彼は経済人というばかりではなく、1753年、たこ上げの実験で雷の正体が電気あることを突き止め、その事故を防ぐ避雷針を発明した科学者としても知られている。
 それのみならず、やがて政治家としても活躍し、アメリカ合衆国の独立宣言や憲法制定にも大きな役割を果たしたという。
 そのような実績を残せた基となったのが、『時は金なり』の精神ということで、現代の我々にも、よく耳にする格言となったのだ。

―しかし―
 私は、この「時は金なり」の格言における「時」の概念と「お金」の概念を比較すると、「お金」の方に比重がかかっていると思わざるを得ない。
 つまり、「時間はお金と同じ様に大事だから、『時間』を大事にしなさい、無駄にするな!!」「時を無駄に過ごすことは、お金を粗末にするのと同じだ」ということは「お金」の重要さをより強調しているのであった。
―でも―
 日本人的、仏教的な『時』に対する概念は、「光陰
(こういん)は矢(や)の如(ごと)し」、「時光(じこう)のはなはだ速(すみや)かなることを恐怖(くふ)す」とか、お寺の木版(もっぱん)に書いてある「生死事大(しょうじじだい)、無常迅速(むじょうじんそく)」のように「時間」というものは、速(すみ)やかに去っていくという「無常観(むじょうかん)」の上に成り立っていると思える。
―その事実を―
「祇園精舎
(きおんしょうじゃ)の鐘(かね)の声(こえ) 諸行無常(しょぎょうむじょう)の響(ひび)きあり」(平家物語)とか、
「月日は百代
(ひゃくだい)の過客(かきゃく)にして 行(ゆ)き交(か)う年(とし)も又旅人なり」(奥の細道)と、
『時』というものは、常では無くして、生滅変化していくものであると捉えているのだ。
 ここには、時に対する刹那生滅の真実に比重を置き、だから私達に「時間」を無駄にすることなく『今』という『時』を懸命に生きるべくことを教えられるのである。
 つまり、私達人間の「生死
(しょうじ)」あるいは「生(い)き方(かた)」そして「生命(いのち)」のあり方を、より重要視していることにほかならない。
『時間』という宇宙の法則、真実は『お金』と言う勘定で計ってはならないのだと、私は三百年前のフランクリンに対抗して「されども お金は時とともに失くなるよ」と言ってしまった。
―さすれば―
「高山和尚!!お前は、この格言を、どのようにしたいのか!!」とフランクリンに問われたなら、私は、こう答える。
『時は生命
(いのち)なり』と、
 生命は大切なものである。だから時間は生命と同じように大事にし、ムダにしてはいけないのだ。と言いたいのである。
―でも―
 思っていることと現実は違いますよねェー。
 やっぱり、お金は大事なんだよなぁー。
 生命も大事です!!。
 「年金問題」は、まさに「お金
(かね)と生命(いのち)」の両方の問題なのだ。
 「消えた年金」をちゃんとして、無駄にするなぁー!!
 それが今の私の本音です。

合掌

 

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