お盆特集号
「 く も の 糸 」

和尚さんのさわやか説法 平成16年8月号 曹洞宗布教師
常現寺住職 高山元延

 今月八月一日早朝六時、常現寺を会場にして、小中野生(い)き活(い)き「森のおとぎ会」が開催された。
 八戸童話会の御理解と御協力をいただいて小中野地区に初めて、おとぎの花が芽吹いたのである。
 当日は小中野地区に住む子ども達は勿論のこと、大人から高齢の方々まで、約230人が集まってくれた。
 皆は、次々と繰り出す童話や絵噺
(えはなし)やパネルシアター等々「おとぎの世界」に喜々として耳を傾け、惜しみない拍手をおくった。
 私自身も、その中の一人として、とてもおもしろく、楽しく、かつまた感動した。
 それぞれの演目は、各先生方の個性が光りまた工夫された話術もありで、どんどんと引き込まれたが、特に私自身興味を引いたのは朗読「くもの糸」であった。あの芥川龍之介
(あくたがわりゅうのすけ)の作品である。
 「くもの糸」は大正七年七月『赤い鳥』創刊号に発表されたもので、芥川が書いた年少向けの作品の中でも第一等と評され、多くの人々が子ども時代に親しんだ小説でもある。
 それを朗読という形で聞いた。私自身子どもの時は、単にこの本を見て読んだのではあるが、人の声を通して聞くのは初めての経験だった。
 佐々木正
(あきら)先生のメリハリのある声と豊かな表現によって、芥川の「くもの糸」が、まるで映画を見ているような感覚に襲われ、聞くことによって私の中でそれが写実化されていった。
 朗読、あるいは読み聞かせ、またおとぎ話を「語る」ということは、聞き手の側にすれば、「聞く」ということによって、その作品や語り手が、何を伝えようとするのか、個々にイメージ化させたり、自己没入をしたりをして、そのメッセージを読みとろうとする。
 また、その語り手自身もその物語が何を伝えたいのか何を教えたいのか、何を言わんとするのかを、それを如実に「語る」ことがなくてはならない。
―その時―
 私は「くもの糸」の朗読を聞いていて、子ども時代に読んだそれと、大人になった、あるいは和尚としての今とでは、その内容の受け取り方が全然違っていることに気づいた。
 物語自身は、いつの時代も変わらないはずなのに…。
「芥川龍之介は、くもの糸を通して、我々に何を伝えたかったんだろうか……。」

 『くもの糸』は、こうして始まる。
「ある日のことでございます。お釈迦様は極楽の蓮池のふちを独りでぶらぶらお歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色の蕊
(ずい)からは、何ともいえない好(よ)い匂(にお)いが、絶え間なくあたりへあふれております。極楽はちょうど朝なのでございましょう。」
 物語の登場者は、お釈迦さまとカン陀多
(カンダタ)という極悪非道の男、そして蜘蛛だ。
 お釈迦様は極楽の蓮池から地獄をのぞいてみた。透き通った池は地獄から見れば天上、あるいは天空である。お釈迦さまには、その地獄の様子が、はっきりと見え、そこにカン陀多という男が苦しみ悶えていたのが見てとれた。
 この男は悪事の限りを尽くし死後、地獄に落ちたのではあるが、それでもたった一つ、よいことをしたことがあったという。
 それは、深い林の中で一匹の蜘蛛を踏み殺そうとしたことを思いとどまったことにある。
 「小さいながら、命あるものにちがいない。その命をむやみにとるということは、いくらなんでも可哀想だ」と。
 このことをお釈迦様は思い出され、この男を地獄から救い出してやろうと考えられた。
 そこで極楽の蓮の葉の上にいた蜘蛛が糸をかけていたのを手に取られ、そこから地獄の底へ糸をおろしたのであった。
 カン陀多は毎日、責め苦に悶え、あえいでいた。
―その時であった―
なにげなく頭を上げると、天空にキラッと光る一筋の糸が自分の方に垂れ下がってくるではないか。
 男は思わず手を打って喜んだ。この糸にすがりつき上がっていけば、この地獄から抜け出せる。「しめた!!」
 飛びつき両手でしっかりとつかみ、上へ上へとたぐり登った。
 そのかいあって、今まで苦しんだ地獄は、闇の底にかくれ見えないほどになっていた。
 ふと下界が気になって下を見ると数限りない地獄の亡者達が蟻の行列のように、その細い一本の糸にすがりつき、よじ上がっているではないか。
 カン陀多は、ぞうっとした。「何という、そんないっぱいくっついていたら切れてしまうではないか」
―彼は叫んだ―
「こらぁー。この糸は俺のものだ。俺が助けた蜘蛛の糸だ」「俺さまの…」
 そう言った途端、糸は男の手のところでプツンと音をたてて切れてしまった。
 カン陀多は真っさかさまに奈落に落ちていった。あとにはただ、極楽の蜘蛛の糸が、きらきらと光りながら地獄の天空に短く垂れ舞っていたという。

 芥川龍之介は、この「くもの糸」を通して私達に何を言いたかったのか。
 人間の本質だろうか。人間の我欲のあさましさ。自我という「貪り
(むさぼり)の心」を表わしたかったのか。
 私は、それだけでなく、このカン陀多は、「芥川」自身のことを、自己自身の本質的に持っている自我への否定であり、懺悔ではなかったかと思っている。
 きっと、あの時、カン陀多が
「おう、よく上がってきたなぁ」「上がれ、上がれ、一緒に上がろや」と言ったら、細い糸は絶対に切れなかったにちがいない。
 無数の亡者がすがりついたとしてもだ。
―私は、ここでハッと気づくものがあった―
「そうだ、お釈迦様は蜘蛛の糸ばかりでなく今まで、色んなものを極楽から下
(お)ろしていたにちがいない」
「蜘蛛の命を慈
(いつく)しんだカン陀多には、くもの糸を」
「花や、鳥や、動物の命を助けたものには、それらを天界から使わしたのだ」
 しかし、地獄の亡者達は誰しもカン陀多を同じで、「俺のものだ」と叫んだのだ。
 だからこそ、こうして今のなお地獄の底にいるのだ。

 今日は「お盆」である。実は、この「お盆の心」こそ、まさに皆なを救ってあげたい。皆なを「極楽行き」に導きたいをいう「ほとけの糸」なのではないか、そう思うのである。
 今回、私は朗読「くもの糸」を通して、仏教の本質を学ばさせていただいた。

合掌 

  

 

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