―春雪騒動記―
「ひと冬の思い出」

和尚さんのさわやか説法 平成15年3月号 曹洞宗布教師 *****
 
常現寺住職 高山元延

 この前の「春雪(はるゆき)」はすごかったですなぁー。
 私が住職就任以来、こんなに雪が積もったのは初めての経験です。
 その上、冷たく、湿って、重い。更には大量の雪が金曜日の夜半から土曜日と終日降ったものだから、その後遺症たるや、すさまじい。
「太郎の家に 雪は降りつむ。
 次郎の家に 雪は降りつむ」
と、いうようなシンシンとした雪ではなかった。
 風は横なぐりに、雪は縦なぐりに積もった雪は更に斜めなぐりに吹きつける。
 お寺の墓地や境内は
「太郎の墓にも 雪は吹きつけ
 次郎の墓にも 雪は吹きつけ」
と、いうようなことでまさに平原化していた。
 てっぺんの頭しか出てないものだから、
 どれが太郎の墓なのか、どれが次郎の墓なのか、全然解からない。
―そんなもんで―
 除雪作業は困難を極めた。前述したように大量、重量、湿量の雪。そのうえ、こちとらは老量が年々増加し、パワーは容量不足。ヘナヘナとなってしまった。
―でも―
 我が常現寺には神
(かみ)、仏(ほとけ)が付していらっしゃる。
 と、いうのは、神仏の化身となって、となりの「田中石灰」さんのショベルカーがボランティアで奉仕してくれているのだ。
 まさにそれは、千手観音
(せんじゅかんのん)の如く、千の手がショベルカーのハンドパワーとなって雪を寄せ、持ち上げ、積み重ねていく。
「なんと心強い、ショベル観音様!!」
 それに比べて、うちの奥様は、住職の私のケツをたたき、
「早く、雪片づけをしなさい!!」
「本堂玄関前の雪片づけは、住職の仕事!!」
「私は台所の後片づけよ!!」と言う。
「なんと、心暖かい、しゃべる観音様!!」
―てなことで―
 春雪お寺騒動記の顛末でありました。
―でもねー
 この南部の春雪が来ないと、北国には、暖かい春も、やって来ないんですよね。
 お墓参りの御経をあげに行く度に、この雪が少しづつ解
(と)け、減っては、やがて消えていく。
(そう、ここは墓地であるがゆえに、ボチボチとね。)
 その変化を見るのが春を待つ私の楽しみでもあるのだ。
 暖かくなるとともに、雪解けが加速され、地面が現れてくるようになると、
「ひと冬の出来事」というか、はたまた、「ひと冬の思い出」というものが露出してくる。
「亡くなった貴女を偲んで吸ったタバコは、おいしかったよ」
―吸った淡い思いは、フィルターとなって、雪にしまおう―
「ジュッ」
「お前となあー。もう一度、酒くみ交わしてみたかったよー」
「グビッ」
―じゃあな、雪氷で冷
(ひ)えている酒、ここに置いておくから、飲んでくれや―
 etc……。
と、まあ。住職の私には、「ひと冬の出来事」が、その吸殻や空き缶、空きビンを通して見えてくるのだ。
―しかし―
―だが―
 住職の私は、非情にも、その思い出の吸殻や空き缶を拾って、ゴミ箱に捨ててしまうのだ。
 こう、つぶやきながら…。
「思い出は心の中にしまえ、雪の中にはしまうな!!」ってね。
 嗚呼!!なんと無慈悲な和尚であろうか。
 仏教の道歌に、
「世の人に 捨てろ捨てろと 捨てさせて 拾って歩く 寺のお坊さん」というのがある。
 この仏教の道に私は反していることなのか。
―さにあらず―
 これは世の人に吸殻や空き缶、空きビン、ゴミを捨てていいよ、という「ポイ捨て奨励策」ではなく、「煩悩」や「自己の悩み」をお寺に捨てていきなさい。
 お寺の和尚さんが、それを拾ってあげるから、帰る時には、スッキリして行くんだよ!!という、現代風に言えばカウンセリング仏教のことである。

―しかし―
 修行未熟の私には、まず、ゴミを拾うところから始めよ!!というみ仏様からの教えにちがいない。
 そうでないと、世の人の「心のゴミ」を拾うことができないからだ。
 そう思って、私は、せっせと「ひと冬の思い出」を拾っては捨て、拾っては捨てる修行をさせていただいている。

 先日、こんなことがあった。
 お葬式後の埋葬の時、遺族や皆さんが合掌し線香を上げて故人の冥福を祈る。
 その墓前読経の際に私は、こう言った。
「皆さん今日は寒いですから、お線香を上げた方は、どうぞ本堂におもどり下さい」と、
 それぞれが焼香し、終わった人は本堂に向かっていくが、その中で、とある集団が本堂に向かわず、一人がタバコに火を点け始めると、次から次へと伝染したかのように十人ぐらいが「プカー」とやったのだ。
 御経を読みながらではあるが、その光景が見えた時、私は「プ」がとれて「カー」となってしまった。
 読経中でもあり、「こりゃー」とも叫ぶわけにもいかず、側にいた葬儀屋さんに小声で「灰皿を持っていってくれ」と、目で十人集団の方を指
(さ)した。
―そしたらである―
 タバコを雪の中に捨てた人も、吸っている途中の人も、その灰皿にタバコを押しあてた。
 その時、私は「あること」に気付かされた。
 私は喪主の方にお断りをして、御法事の席で、こうお話しをした。
「先ほどの『埋葬タバコ大量吸引事件』のことですが…」
(何だか、すごい事件に発展しそう「陰の声」)
 あの時、タバコを吸っていた人達は一切にシュンとなる。
 そこで、私は、あまり詰問しても可哀想と思い、こう言った。
「東京の千代田区ではタバコポイ捨て禁止条例というのがあって、違反した人は罰金を徴収するという。」
「そこで、私は『常現寺タバコポイ捨て禁止条例』を作って、違反した人からは、おサイ銭を仏様に上げてもらうと、考えている。」
 そう言ったら、皆なは「ワー」と笑い出した。
 それを受けて、さらに「ただ、この条例は施行前ですので、今日のところは結構です。」と言うと、またまた「ワー」となり、その場がなごんだ。
―それからである―
 私は、あの時、「気付かされたこと」を、切々と話し始めた。
「なぜ、お寺の墓地や境内そして本堂には『灰皿』が置いてないだろうか」
「そのことを、よく考えてみてほしい」
「その場所と空間は、『吸ってはいけない』ということではなく、『もともと吸うところではない』ということです。」
「つまり、禁止したり罰金を徴収するという違反行為ではなくして『もともと吸うところではなく、もともと捨てるところでもない』という自発的、自己心のあり方であるということです。」
「このことに皆さんに気付いてもらいたい」と、こう結んだ。
 皆なは一切に「ハー」とため息をついた。
 実は、このことは私達世間一般にもいえることである。
 お寺や墓地ばかりでなく山や川や海の自然界にも道路や戸外にも、灰皿は置いていない。
 そこは、もともと吸ったり、捨てるところではないからである。

 この、「もともと」という自発的自己心のあり方に気付くことが、実は、「宗教の心」ということなのだ。

合掌

 

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